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2009年 03月 04日
私が産んだ助産院では、
お産の後、バースレビューという、 お産の感想を一冊のノートに書きました。 以下がそれです。 *************************** 神様はなぜ産みの苦しみを女性にあたえたのだろう。 三度目のお産にもかかわらず、あまりのお産のつらさに、 産後直後、こんな素朴な疑問を抱かずにはいられませんでした。 そして思ったのです。 やっぱり、 私の弱さ、人間の弱さを自覚させるためなのだろう、と。 私の、人間としての、忍耐できる限界を超えた痛み。 自分の力ではもはやどうしようもない苦しみの中、 最後の最後で頼れるのは、 苦しみを乗り越えられるのは、 これがただの拷問ではなく、 その先に愛があるから、 生まれようとしている生命があるから、なのだと思いました。 一人目のお産の後、 私は、医療処置に頼る事なく生めたことから、 「自分で生んだ」と得意になり、 次は一人でも生める!調子になっていましたが、 二人目のお産のとき、ほんの一瞬、助産師さんがそばを離れただけで、 どれほど心細く思ったことか。 お産は一人では無理、 周りで支えてくれる人がいて、 私は初めて安心して生むことができたんだ、と、 謙虚な気持ちになれました。 三回目の今回のお産ではそれをさらに実感することになりました。 私は弱い存在です。 人間は弱い存在です。 一人ではいきていけません。 でも、その弱さを認めて、謙虚な気持ちになった時、 誰かに支えられて日々いきている自分がいることに感謝でき、 ほんの少しだけ強くなり、 自分も誰かのために少しでも役に立ちたい、 と思える気持ちが育つ気がします。 「産みの苦しみ」とは、 子どもを産み、育てるという、 とても尊い創造的な役目を与えられた母親に、 神様があえて与えられた試練なんだと感じたお産でした。 そんな壮大な試練を乗り越えられたのは、 家族と助産師さんたちのおかげです。 本当にありがとうございました。 ************************** 産みの苦しみを乗り越えて、 私はあの日、本当に自分の弱さを知り、 苦しみを与えられた時に、 自分が何も耐えるすべをもっていないことに、 途方に暮れました。 でも、夫はそばにいてくれて、 「ロザリオの祈り」という聖母マリアへの祈りを唱えてくれました。 そのとき、思ったのです。 本当に、 私が自分の足では歩くことがまったくできなくなったときでも、 神様はそばにいて、 私を支えてくれているんだと。 「あしあと」という詩を思い出しました。 ++++++++++++++++++++ 「あしあと」マーガレット・F・パワーズ ある夜、私は夢を見た。 私は、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 一つは 私のあしあと、もう一つは主のあしあとだった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 私の人生で いちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつも私の心を乱していたので 私は その悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。私があなたに従うと決心したとき、 あなたは、すべての道において、私とともに歩み、 私と語り合ってくださると 約束されました。 それなのに、私の人生のいちばんつらい時、 ひとりのあしあとしかなかったのです。 一番あなたを必要としたときに、 あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、 私には わかりません。」 主は、ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、 わたしはあなたを背負って歩いていた。」 ++++++++++++++++++++++++++++ お産で最高に苦しかったとき、 「もう無理」と、不覚にもつぶやいてしまった。 自分で自分の体を支えられないほどつらかったとき、 夫のささやくロザリオの祈りが聞こえた。 このとき、 「あしあと」の詩のように、 神様はもう一歩も歩くことのできない私を、 背負ってくれていたのだと思う。 神様、み使いとして支えてくれた、 家族や助産師のみなさん、本当にありがとう。
by love-the-life
| 2009-03-04 09:31
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