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2009年 05月 11日
大人ならみな理性を持っているはずだ。
というのは、昔の話なのか、 あるいは、日本社会にはもともとそういった基盤はないのか、 歴史にうとい私はそのへんの知識がうやむやだけれど、 現代日本社会が、感情で動く社会だということは分かる。 人を殺してはいけない。 この世界共通の認識、 これを守ることは理性的な行為だと思うけれど、 実は、日本社会はそうとも限らない。 子どもを殺された親は、 当然の権利のように、 犯人に死刑を望む。 子どもを殺した親は、 当然死刑に値すると社会は思い、 理性的な判断を下すはずの司法の場も、 子どもを殺すとは、なんとも残虐な行為であるとばかりに、 死刑になる子殺しの親が増え続けている。 子殺しの事件が起きると、 世間は決まって自分を殺された子どもの立場にたって考える。 自分を、「私ももしかしたらふとした瞬間、子どもをあやめてしまうかもしれない」、 という想像をする人はどのくらいいるだろうか。 殺された子どものことを思って、 その子どもに自分の息子を重ね合わせて、 なんてかわいそうなんだろう、 と私ももちろん思う。 でも、その後で、 私は必ず、 「いや、一日中子どもが泣き止まず、 だだをこね続けていたら、私だって、、、、」 ということを考える。 罪はつぐなってほしいが、 私は自分を「良心の人(間違いを犯さない人)」の立場から、 責めることはできない。 しない、などと恰好の良い意見ではなく、 本当に、「できない」と思う。 胸に手をあてて考えてごらん。 というやつである。 だから、鈴香容疑者や、最近の虐待ママなどは、 彼女たちだけが狂人で、 まれに存在する人間、だとは思えない。 どこにでもいる、 普通の母親であり、 ときには子どもを怒り、たたき、 おしおきし、 でも、子どもがかわいい、 と思ったときもきっとあったに違いない、 と思うのだ。 でなければ、 あの年齢になるもっとずっと先に、 その辺に捨ててしまうこともできたわけだから。 5〜6年育てただけでも、 がんばった、えらいよ、 と思うのは、私だけだろうか。 世間では、私の方が、 変人と思われてしまうだろうか。
by love-the-life
| 2009-05-11 12:58
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